向き合う、余白、キャッチボール、など。
今回は、 今現在の私の音楽的理解はここまでですということを晒し出すような記事なんだけれども(汗)
やっていてつまらない演奏ってあるんです。
でも、どういうときに自分が「つまらない」と感じるのかわかっていなくて
と、いうわけで、いつもの友人たちを巻き込んで、考えてみました。いつもお付き合い感謝~
自分が一番ストレスに感じるのは、会話がないとき かもしれない。
“会話がない”って、いろいろな分岐があると思うんですけど、 例えば、とても主観的ですけど、
・誰かが意図せず浮いていて、それに気づいていないとき
(極端な例でいうと、一人だけ走る、 ロストしていても気づかない)
・自分の演奏に精一杯で、周りの音が聴こえていない
あとは抽象的だけど、
・受け取らないしそもそも見ていない
・投げさせる余白もない
・投げかけない
・暴投する(!?) ←これは時として面白い場合もあるけど
・マイナスワン
・カラオケ
この状態が続くと、私は弾く機械になってしまいます。。。
ベーシストの先輩が、「なるべくならセッションのとき目立ちたくないよね」って言っていたけど、わかるけどわからない。
わかる→一人だけ浮いてるのは私のポリシーではない。 皆で創り上げてこそ即興である。
わからない→自分でないとだめ、 という唯一無二になれる個性はほしいな。
私はやはりトリオやデュオも好きで、 それは会話を存分に楽む余白が多いからというところも理由の一つです(単純計算でいっても一人の担う会話量も1/3や1/2と多め)。
私の好きなピアノトリオってこういうイメージ
リサイクルマークみたいですね。
渦を作りながら前進前進を続けていくイメージです!
これができていることが前提で、 フロントが入るとめちゃんこ楽しくなる(どっちパターンも好き)
つまらない演奏のときって、「もっと私たち/私のほうを見て喋ってよ、私たちの音を聴いてよ」って常に思っている気がします。
でも言い方を変えると、「皆で楽しくおしゃべりしようよ!」 ともとれるな。こっちをポリシーにしようかな。
尊重したいし、してほしい。なかなか難しいですけどね。
感動の幅を広く持ち、高い音楽性と技術を目指すことが必須に思えます。がんばります。
最後に、「余白」 というものはとっっても大事だと思えることがありました。 余白って良いものなんだ!って思いました。
先日聴きに行ったライブでの市原ひかりさん、 石田衛さんの掛け合いが素晴らしかったんです。
全く音を詰め込まないので、とても居心地よいライブでした。 でも、確かなグルーヴはあったと感じました。
市原さんが余白を作った(呼吸を入れた)ところに石田さんがそっと手を差し出すイメージ。「余裕」って感じでした。 自然とお互いの音を聴くことができている印象を受け、 とてもとても素敵でした。ああなりたいよぉ。
市原さんが一呼吸置いたところに、石田さんがお茶を出したり、 また背中を押したりしているような感じでした。 それに対して市原さんも「ありがとー」 って感じでまた歩き出す感じで。よかったなぁ~。
そんでその後ろで出汁のようにグルーヴしているベースね! 良かったっす。渋い。
覚え書き:次回の固定バンドの練習のときは、「 余白を怖がらないで」「周りの音を聴く意識」「でも各々が好きなことを勝手にやる」「でも誰かが何かやったら気づいて、反応するかしないかを自分で選択する気概でいる」「相手のスペースに入り込んで絡み合う」「ジャズの第一歩は合いの手、会話のキャッチボールだ」 など言ってみようと思います。たぶん、 まだリズムセクションがバラバラなので、フロントとも断絶がありマイナスワンになってる状態なんだと思います。皆の音を聴き/意識しつつも、 ピアノとドラムには好きなことを勝手にドシャーンってやってほし いなぁ。…とか言い出すと部活みたい…。でも、 固定バンドの意義ってそんなとこにもあるのかなと思ったりもします。最初は、“つっこみ待ち” みたいな定型文から始まってもいいのかもしれない。 自分はやはりアンサンブルという行為が好きなので、 追及していきたいです。人間が力を合わせて何かやるって、 やっぱ楽しいよね。おわり(^^)v